2015年03月21日
四国遍路⑬
国内には違いなく、時間的にも3時間あまり、
それでも遠い四国です、この時、四国に行ったのは
四万十市で4日連続で40度を超えた時期でした。
阿波踊りが鳴門から徳島に会場を移し、高知では
よさこいソーランが始まる時です。
で、私はというと38度の徳島の山中で虫の息・・・・。
それでも懲りない魅力はどこから来るのでしょう。
徳島駅前から勝浦町役場方面の路線バスの始発は7時前です。
1時間に1本もありませんので、どうしてもこれに乗りたくて、
前日の6時過ぎに京都駅前から高速バスで徳島まで、
到着は9時を回りますが、チェックインして軽く夕食です。
ビジネスホテルは4000円程度、駅前ですのでピンからキリまで
ありますが、キリの方を選びました。
翌朝は6時に目が覚め出発の準備、チェックアウトは6時30分、
駅前のコンビニで朝食のおにぎりと昼食のおにぎり、水筒には
ホテルでもらった氷がいっぱい詰まっています、そこにお茶を入れて
水筒を満タンにします、残りのお茶は朝食の時とバスの中で飲んでしまいました。
生名まで1時間弱、バス停を降りると20番鶴林寺への標識があります。
歩きと自動車は別の道です、もちろん歩きの道を選んで
細い路地や軒の下のような道を通ります、少しずつですが上っています。
バス停の近くでお茶を買いましたので水分は1L、これで鶴林寺までは
十分です、石畳やコンクリートの遍路道を上ります。
途中、マムシ注意の札がいくつもあります、札があるということは
道を間違っていないということです。
車道を横切りショートカット、その分上りがきつい。
ペットボトルのお茶が半分くらいになりました。
膝や上半身は汗でびっしょりです、首からかけたタオルも湿ってきました。
ハーハー、立ったまましばし休憩。
そのうちまたショートカットがあり車道に出ると見覚えのある風景、
前回は車道を歩いてきたので記憶のどこかに残っていたのでしょう。
ここからは車道を歩きました、と、行っても1キロもせずに駐車場に
到着、約2時間ほどで鶴林寺です。
山門で一礼してベンチで一休み、息を整えて本堂へ、
この時期は暑いので車の遍路も少なく、歩きは私一人です。
車でお参りの若夫婦と入れ替わりに本堂へ、気持ちよく読経でき
大師堂も貸し切りでしたので気分上々、その足で納経所へ、
ここではお接待に飴とチョコレートをいただきました。
普段は甘いものは口にしませんが、歩くと疲れますので飴は
大歓迎です。
さぁ、上った分下ります、下りは納経所の前の階段を下りていきます、
最初の所は杖をしっかり踏んばらないと落ちてしまいそうです。
足場も石がごろごろして滑ると大事になります。
15分くらいで車道に出ました、車はここを左に行き、道の駅のわしの里
まで、そこからロープウェイで21番太龍寺に昇りますが、歩きはこのまま
平地まで下ります、15分くらいで東屋に着きます、ここにはミカンの
お接待があります、無人の東屋ですのでミカン好きなら4・5個・・・・・。
靴を脱いでリュックを下してミカンをいただきます、小学生が
夏休みの自由研究でお遍路さんにいろいろと質問して、
それをまとめたものがありました、普通、休憩は10分ですが
予定より30分ほど早く着きましたので、思い切って20分の
休憩を取りました、水筒のお茶は冷たく体が喜んでいますが、
この先自販機はありません、お茶の代わりにミカンを2個、
リュックに詰めて出発です。
すぐに水井橋に着きここから山に入ります。
そしてこれからが久々の地獄の始まりになります。
焼山寺、鶴林寺、太龍寺は遍路ころがしと言われ、歩き遍路を
苦しめ試練を与える札所として有名です、その3つ目、徳島では
最後の難関でアクシデントが起こります・・・・・。
今日はこれから叙勲のパーティーに行ってきます。
今月に入って黄綬褒章のパーティーに続き2度目です、
多くの方が招かれますので、馴染みの顔にも出会えると
楽しみにしています。
もう一度寒くなるようですが、季節の時計は春に向かって
動いています、物みな目を覚まし活動を始める季節です。
今日は春分の日、春の彼岸の中日です、昼と夜の長さが
同じ長さになり、これからは昼が長くなっていきます。
彼岸という言葉は仏教用語で「あの世、向こう側」ということだったと
思いますが、三途の川であっちとこっちに分かれているのでしょうか。
もちろん目に見える川ではありません、六道の中の地獄、餓鬼、畜生の
三本の川を三途の川と呼びます、残りの三本、修羅、人間、天、
生きている間も、我々はこの六道をグルグル回っていると
言われます、その日、その時の心のありようで六道のどこを回っているのか
指した言葉でしょう。
彼岸の中日の今日だけでも、先祖を思い、天の道は無理かもしれませんが
人間道の心でいられるよう、穏やかな一日でありますよう。
それでも遠い四国です、この時、四国に行ったのは
四万十市で4日連続で40度を超えた時期でした。
阿波踊りが鳴門から徳島に会場を移し、高知では
よさこいソーランが始まる時です。
で、私はというと38度の徳島の山中で虫の息・・・・。
それでも懲りない魅力はどこから来るのでしょう。
徳島駅前から勝浦町役場方面の路線バスの始発は7時前です。
1時間に1本もありませんので、どうしてもこれに乗りたくて、
前日の6時過ぎに京都駅前から高速バスで徳島まで、
到着は9時を回りますが、チェックインして軽く夕食です。
ビジネスホテルは4000円程度、駅前ですのでピンからキリまで
ありますが、キリの方を選びました。
翌朝は6時に目が覚め出発の準備、チェックアウトは6時30分、
駅前のコンビニで朝食のおにぎりと昼食のおにぎり、水筒には
ホテルでもらった氷がいっぱい詰まっています、そこにお茶を入れて
水筒を満タンにします、残りのお茶は朝食の時とバスの中で飲んでしまいました。
生名まで1時間弱、バス停を降りると20番鶴林寺への標識があります。
歩きと自動車は別の道です、もちろん歩きの道を選んで
細い路地や軒の下のような道を通ります、少しずつですが上っています。
バス停の近くでお茶を買いましたので水分は1L、これで鶴林寺までは
十分です、石畳やコンクリートの遍路道を上ります。
途中、マムシ注意の札がいくつもあります、札があるということは
道を間違っていないということです。
車道を横切りショートカット、その分上りがきつい。
ペットボトルのお茶が半分くらいになりました。
膝や上半身は汗でびっしょりです、首からかけたタオルも湿ってきました。
ハーハー、立ったまましばし休憩。
そのうちまたショートカットがあり車道に出ると見覚えのある風景、
前回は車道を歩いてきたので記憶のどこかに残っていたのでしょう。
ここからは車道を歩きました、と、行っても1キロもせずに駐車場に
到着、約2時間ほどで鶴林寺です。
山門で一礼してベンチで一休み、息を整えて本堂へ、
この時期は暑いので車の遍路も少なく、歩きは私一人です。
車でお参りの若夫婦と入れ替わりに本堂へ、気持ちよく読経でき
大師堂も貸し切りでしたので気分上々、その足で納経所へ、
ここではお接待に飴とチョコレートをいただきました。
普段は甘いものは口にしませんが、歩くと疲れますので飴は
大歓迎です。
さぁ、上った分下ります、下りは納経所の前の階段を下りていきます、
最初の所は杖をしっかり踏んばらないと落ちてしまいそうです。
足場も石がごろごろして滑ると大事になります。
15分くらいで車道に出ました、車はここを左に行き、道の駅のわしの里
まで、そこからロープウェイで21番太龍寺に昇りますが、歩きはこのまま
平地まで下ります、15分くらいで東屋に着きます、ここにはミカンの
お接待があります、無人の東屋ですのでミカン好きなら4・5個・・・・・。
靴を脱いでリュックを下してミカンをいただきます、小学生が
夏休みの自由研究でお遍路さんにいろいろと質問して、
それをまとめたものがありました、普通、休憩は10分ですが
予定より30分ほど早く着きましたので、思い切って20分の
休憩を取りました、水筒のお茶は冷たく体が喜んでいますが、
この先自販機はありません、お茶の代わりにミカンを2個、
リュックに詰めて出発です。
すぐに水井橋に着きここから山に入ります。
そしてこれからが久々の地獄の始まりになります。
焼山寺、鶴林寺、太龍寺は遍路ころがしと言われ、歩き遍路を
苦しめ試練を与える札所として有名です、その3つ目、徳島では
最後の難関でアクシデントが起こります・・・・・。
今日はこれから叙勲のパーティーに行ってきます。
今月に入って黄綬褒章のパーティーに続き2度目です、
多くの方が招かれますので、馴染みの顔にも出会えると
楽しみにしています。
もう一度寒くなるようですが、季節の時計は春に向かって
動いています、物みな目を覚まし活動を始める季節です。
今日は春分の日、春の彼岸の中日です、昼と夜の長さが
同じ長さになり、これからは昼が長くなっていきます。
彼岸という言葉は仏教用語で「あの世、向こう側」ということだったと
思いますが、三途の川であっちとこっちに分かれているのでしょうか。
もちろん目に見える川ではありません、六道の中の地獄、餓鬼、畜生の
三本の川を三途の川と呼びます、残りの三本、修羅、人間、天、
生きている間も、我々はこの六道をグルグル回っていると
言われます、その日、その時の心のありようで六道のどこを回っているのか
指した言葉でしょう。
彼岸の中日の今日だけでも、先祖を思い、天の道は無理かもしれませんが
人間道の心でいられるよう、穏やかな一日でありますよう。
Posted by いとう茂 at
11:07
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2015年03月20日
卒業式・修了式
3月14日は粟津中学校の卒業式、18日は膳所幼稚園の
終了式、19日は富士見小学校の卒業式に出席しました。
私がPTAの会長をしたのは幼稚園が昭和62年、小学校が
平成元年でした。
その時の卒業生、修了した園児も30代半ばから後半に
さしかかっています、つまり、その子どもたちが結婚して
生まれた子どもの修了式、卒業式に出ていることになります。
改めて時間の流れを感じます。
役をしていたころと変わったのは、父親の出席が増えたことと
手に持っているビデオが小型になりカメラが減ってスマホが
増えたということでしょうか。
卒業式も代表型から全員参加型に変わり、昔でいう答辞も
分担して、それぞれが輝ける瞬間があります。
膳所幼稚園と富士見小学校では議長の祝辞を代読しました、
事前にいただくのですが、幼稚園で2年、小学校だと
6年の思い出が子どもたちには詰まった修了式・卒業式です。
私が小学校を卒業する時に議長の祝辞があったかは
覚えていませんが、6年で1度しか経験しない卒業式。
前日に何度か読んで流れをつかみますが、自分がこの祝辞を
添削できるのなら、子どもの思い出に残る祝辞にできないか、
どんな文章が適切か、能力不足は否めませんが・・・・。
そっちのほうに時間が取られ、一人頭の中で添削しています。
祝辞を読むときは短いこともあって、なるべく子どもたちを
見るようにしています、頭の中に流れがなんとなく入って
いるからだと思いますが、もしかしたら、もしかしたら・・・・・
添削した祝辞かもしれない・・・・・。
私の様な人間がもう少し心に残る、心に響く祝辞をと考えるのですから、
もう少し何とかして欲しい・・・・。
それも議会改革・・・・・と違う?
英語も大切だけど、人生の節目に語られる日本語はもっと大切です。
飛行機の機内食も最近変わってきているといいます、
「こんなもん」という先入観をよい方に裏切るのもよいことだと・・・・。
今日は特別会議がありました。
次年度に行う事業予算の前倒しの補正予算が主で、
新年度予算からその分を差し引く減額予算の審議でした。
7月にプレミアム付きの商品券が発売されます。
事前に申し込みが必要ですが1万円で1万2千円の商品券が
もらえます、一人3冊までで総数10万冊の発売です。
3月31日にも特別会議が開催されます。
国の法律改正等と大津市の条例との整合性をはかる
審議もあります。
昨日は市議選に提出する書類の事前審査でした。
大きなミスはありませんでしたが2・3不足している書類があり、
25日の午後からもう一度審査があります。
来月の13日は選挙カーの検査もあります。
川の流れが急に激しくなってきました。
終了式、19日は富士見小学校の卒業式に出席しました。
私がPTAの会長をしたのは幼稚園が昭和62年、小学校が
平成元年でした。
その時の卒業生、修了した園児も30代半ばから後半に
さしかかっています、つまり、その子どもたちが結婚して
生まれた子どもの修了式、卒業式に出ていることになります。
改めて時間の流れを感じます。
役をしていたころと変わったのは、父親の出席が増えたことと
手に持っているビデオが小型になりカメラが減ってスマホが
増えたということでしょうか。
卒業式も代表型から全員参加型に変わり、昔でいう答辞も
分担して、それぞれが輝ける瞬間があります。
膳所幼稚園と富士見小学校では議長の祝辞を代読しました、
事前にいただくのですが、幼稚園で2年、小学校だと
6年の思い出が子どもたちには詰まった修了式・卒業式です。
私が小学校を卒業する時に議長の祝辞があったかは
覚えていませんが、6年で1度しか経験しない卒業式。
前日に何度か読んで流れをつかみますが、自分がこの祝辞を
添削できるのなら、子どもの思い出に残る祝辞にできないか、
どんな文章が適切か、能力不足は否めませんが・・・・。
そっちのほうに時間が取られ、一人頭の中で添削しています。
祝辞を読むときは短いこともあって、なるべく子どもたちを
見るようにしています、頭の中に流れがなんとなく入って
いるからだと思いますが、もしかしたら、もしかしたら・・・・・
添削した祝辞かもしれない・・・・・。
私の様な人間がもう少し心に残る、心に響く祝辞をと考えるのですから、
もう少し何とかして欲しい・・・・。
それも議会改革・・・・・と違う?
英語も大切だけど、人生の節目に語られる日本語はもっと大切です。
飛行機の機内食も最近変わってきているといいます、
「こんなもん」という先入観をよい方に裏切るのもよいことだと・・・・。
今日は特別会議がありました。
次年度に行う事業予算の前倒しの補正予算が主で、
新年度予算からその分を差し引く減額予算の審議でした。
7月にプレミアム付きの商品券が発売されます。
事前に申し込みが必要ですが1万円で1万2千円の商品券が
もらえます、一人3冊までで総数10万冊の発売です。
3月31日にも特別会議が開催されます。
国の法律改正等と大津市の条例との整合性をはかる
審議もあります。
昨日は市議選に提出する書類の事前審査でした。
大きなミスはありませんでしたが2・3不足している書類があり、
25日の午後からもう一度審査があります。
来月の13日は選挙カーの検査もあります。
川の流れが急に激しくなってきました。
Posted by いとう茂 at
12:23
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2015年03月19日
四国遍路⑫
遠い、遠い四国、時間があればと思いますが、
時間がありません、作ろうと思っても作れません。
いらいらしても結果は同じですので、昔に行った時を
思い出し、回想の四国遍路です。
歩いているとボーとしている時間が多いのですが、
それでも結構頭に残っているものです。
常楽寺を出て左へ、国分寺までは1キロありません。
この道も電柱の遍路マークの通りに行けば
迷うことはありません、しかし、国分寺の手前に
お寺があり、うっかりしているとこのお寺に入りそうになります。
山門をくぐると立派な本堂がそびえています。
山門から一直線の位置にあるので顔を上げて
驚きました、手と口を清めて、左手の鐘楼で鐘をひとつき、
本堂に向かいろうそくと線香に火をつけます、
周りに人はいません、それではと、大きな声で
般若心経を唱えます、平地を歩いてきましたので
息の方も乱れていずに気持ちよく回向文まで
唱えられました、続いて右手の大師堂へ、
ここも貸切り、もちろん大声で「仏説 摩訶般若波羅密多
心経 観自在菩薩 行深般若波羅密多・・・・・・」
出だしの仏説という言葉ですが、大津に住んでいると
比叡山の影響があります、天台宗は仏説は言わずに
いきなり、摩訶般若から入りますが禅宗も真言宗も
仏説から入ります。
どうでもいいことかもしれません・・・・・。
納経所はぐるっと回り込み、ちょうど大師堂の裏あたりになります。
さぁ、16番観音寺に向かいます。
2キロ弱でしょうか広い道に出て左の方に真っ直ぐ、
遍路マークは広い道のもう1本向こうの道を指しています、
農業用水かただの溝か知りませんが勢いよく水が流れています。
こちらの道も広いのですが車の通行量は比較にならないほど
少なくのんびり歩けます、すれ違う人が挨拶してくれます。
これが高知県に入るとどういうわけか、姿を見るとスッと
隠れてしまいます、悪気はないのでしょうが、こんな所にも
県民性が出るのでしょうか。
信号を右に曲がると観音寺がすぐそこにあります。
山門を通り過ぎて駐車場へ、昨日の未明から車を止めたまま、
始発に乗って鴨島に行きましたので無事か確認です。
盗るものがなくて無事だったのか、徳島の人は
そんな悪いことをしないのか、とにかく無事を見届けて大きな山門を
くぐります、山門を入る前に合掌して一礼、出る時も同じです。
正面の本堂にお参りし右手の大師堂と、いつもの順序で
お経を唱えます、この札所は奥行きよりも横長のお寺という感じで
納経所は本堂の左側にあります。
実はここまで歩いてきて時間は2時前になっています。
昼食はまだです、大日寺の手前にコンビニがあり、
そこでおにぎりを1個だけ調達しました。
実はこの先にお目当ての中華店があります。
華扇という店で3度目になります、空腹で食べた中華どんぶりの
味が忘れられず、あえて今回もここまで歩いてきた次第です。
普通の状態なら特別おいしいと思わないかもしれませんが、
空腹なら違います、時間も昼時を過ぎていますので店には
私とあと一人しかいません、ゆっくり昼食をとり17番の井戸寺を
目指します、2キロほどでしょうか3時過ぎにはつきます。
徳島線の線路を渡り北に向かいます、白衣を着て杖を突いて歩いているのですが、
四国なら平気です、これが大津なら恥ずかしさで歩けないかもしれませんが
不思議な土地です。
井戸寺には名前の通り井戸があり、のぞいて顔が映らないと
不幸があるとかの言い伝えがあります、ここも4度行っていますが
一度も井戸を覗いたことはありません、いいことも悪いことも
起きるときには起きる、良寛さんではありませんが、災難に会う時は
会うがいい、受け入れることが大切です。
それが災難から逃れる方法だと・・・・読んだ覚えがあります。
このお寺は山門はあるものの、どこまでが敷地でどこからが道か
区別がありません、山門の横は道路で寺の中を走っていくような
感じで、うかうかすると境内で交通事故にあうかもしれません。
お参りを済ませて、来た道を観音寺まで歩きで戻ります、
車で18番恩山寺と19番立江寺にお参りして、今回は
終わりです、次回は高速バスで徳島まで、そこから路線バスで
20番鶴林寺のふもとの生名まで行きます。
観音寺に戻ったのは4時前でした、早速車に乗って恩山寺へ
義経にゆかりがある道もあり昔に歩きましたが、今回は車です、
歩くと急な坂も車なら楽々です、牛舎を左に見て、大きなお大師さんの
像が迎えてくれる恩山寺、山門から真っ直ぐ、階段を上り、
本堂へ、団体のお遍路がお参りを済ませ、大師堂に向かう所で
本堂は貸切です、ゆっくりしたいのですが納経は5時までです、
次の立江寺まで車で6・7分、歩くと1時間です。
逆算するとここを4時40分にはここを出ないといけません、
こういう計算は車だとほぼ正確ですが、歩きだと急に足が痛くなったり
誰かに話しかけられたりと流動的になります。
そこで、最初の頃はいらいらしたものですが、そうした予期せぬことがあるのが
歩き遍路、今回は車と歩きの併用ですが、全体では歩きの方が
断然多くなります、イレギュラーを楽しむのも人間、時には必要です。
結局、恩山寺でも焦ることなく、いつも通りゆっくり読経をして、5時少し前に立江寺に到着し、
先に納経を済ませて、ここでもゆっくり読経三昧。
5分、10分を焦るよりずっと満ちた今回の遍路行でした。
今日は次の市会議員選挙の立候補に必要な書類の
予備審査があります、16日から27日までの間で都合のいい日ということで、
今日の午後にしました、結構揃えなくてはいけない書類があり
名前とハンコの大安売り。
時間がありません、作ろうと思っても作れません。
いらいらしても結果は同じですので、昔に行った時を
思い出し、回想の四国遍路です。
歩いているとボーとしている時間が多いのですが、
それでも結構頭に残っているものです。
常楽寺を出て左へ、国分寺までは1キロありません。
この道も電柱の遍路マークの通りに行けば
迷うことはありません、しかし、国分寺の手前に
お寺があり、うっかりしているとこのお寺に入りそうになります。
山門をくぐると立派な本堂がそびえています。
山門から一直線の位置にあるので顔を上げて
驚きました、手と口を清めて、左手の鐘楼で鐘をひとつき、
本堂に向かいろうそくと線香に火をつけます、
周りに人はいません、それではと、大きな声で
般若心経を唱えます、平地を歩いてきましたので
息の方も乱れていずに気持ちよく回向文まで
唱えられました、続いて右手の大師堂へ、
ここも貸切り、もちろん大声で「仏説 摩訶般若波羅密多
心経 観自在菩薩 行深般若波羅密多・・・・・・」
出だしの仏説という言葉ですが、大津に住んでいると
比叡山の影響があります、天台宗は仏説は言わずに
いきなり、摩訶般若から入りますが禅宗も真言宗も
仏説から入ります。
どうでもいいことかもしれません・・・・・。
納経所はぐるっと回り込み、ちょうど大師堂の裏あたりになります。
さぁ、16番観音寺に向かいます。
2キロ弱でしょうか広い道に出て左の方に真っ直ぐ、
遍路マークは広い道のもう1本向こうの道を指しています、
農業用水かただの溝か知りませんが勢いよく水が流れています。
こちらの道も広いのですが車の通行量は比較にならないほど
少なくのんびり歩けます、すれ違う人が挨拶してくれます。
これが高知県に入るとどういうわけか、姿を見るとスッと
隠れてしまいます、悪気はないのでしょうが、こんな所にも
県民性が出るのでしょうか。
信号を右に曲がると観音寺がすぐそこにあります。
山門を通り過ぎて駐車場へ、昨日の未明から車を止めたまま、
始発に乗って鴨島に行きましたので無事か確認です。
盗るものがなくて無事だったのか、徳島の人は
そんな悪いことをしないのか、とにかく無事を見届けて大きな山門を
くぐります、山門を入る前に合掌して一礼、出る時も同じです。
正面の本堂にお参りし右手の大師堂と、いつもの順序で
お経を唱えます、この札所は奥行きよりも横長のお寺という感じで
納経所は本堂の左側にあります。
実はここまで歩いてきて時間は2時前になっています。
昼食はまだです、大日寺の手前にコンビニがあり、
そこでおにぎりを1個だけ調達しました。
実はこの先にお目当ての中華店があります。
華扇という店で3度目になります、空腹で食べた中華どんぶりの
味が忘れられず、あえて今回もここまで歩いてきた次第です。
普通の状態なら特別おいしいと思わないかもしれませんが、
空腹なら違います、時間も昼時を過ぎていますので店には
私とあと一人しかいません、ゆっくり昼食をとり17番の井戸寺を
目指します、2キロほどでしょうか3時過ぎにはつきます。
徳島線の線路を渡り北に向かいます、白衣を着て杖を突いて歩いているのですが、
四国なら平気です、これが大津なら恥ずかしさで歩けないかもしれませんが
不思議な土地です。
井戸寺には名前の通り井戸があり、のぞいて顔が映らないと
不幸があるとかの言い伝えがあります、ここも4度行っていますが
一度も井戸を覗いたことはありません、いいことも悪いことも
起きるときには起きる、良寛さんではありませんが、災難に会う時は
会うがいい、受け入れることが大切です。
それが災難から逃れる方法だと・・・・読んだ覚えがあります。
このお寺は山門はあるものの、どこまでが敷地でどこからが道か
区別がありません、山門の横は道路で寺の中を走っていくような
感じで、うかうかすると境内で交通事故にあうかもしれません。
お参りを済ませて、来た道を観音寺まで歩きで戻ります、
車で18番恩山寺と19番立江寺にお参りして、今回は
終わりです、次回は高速バスで徳島まで、そこから路線バスで
20番鶴林寺のふもとの生名まで行きます。
観音寺に戻ったのは4時前でした、早速車に乗って恩山寺へ
義経にゆかりがある道もあり昔に歩きましたが、今回は車です、
歩くと急な坂も車なら楽々です、牛舎を左に見て、大きなお大師さんの
像が迎えてくれる恩山寺、山門から真っ直ぐ、階段を上り、
本堂へ、団体のお遍路がお参りを済ませ、大師堂に向かう所で
本堂は貸切です、ゆっくりしたいのですが納経は5時までです、
次の立江寺まで車で6・7分、歩くと1時間です。
逆算するとここを4時40分にはここを出ないといけません、
こういう計算は車だとほぼ正確ですが、歩きだと急に足が痛くなったり
誰かに話しかけられたりと流動的になります。
そこで、最初の頃はいらいらしたものですが、そうした予期せぬことがあるのが
歩き遍路、今回は車と歩きの併用ですが、全体では歩きの方が
断然多くなります、イレギュラーを楽しむのも人間、時には必要です。
結局、恩山寺でも焦ることなく、いつも通りゆっくり読経をして、5時少し前に立江寺に到着し、
先に納経を済ませて、ここでもゆっくり読経三昧。
5分、10分を焦るよりずっと満ちた今回の遍路行でした。
今日は次の市会議員選挙の立候補に必要な書類の
予備審査があります、16日から27日までの間で都合のいい日ということで、
今日の午後にしました、結構揃えなくてはいけない書類があり
名前とハンコの大安売り。
Posted by いとう茂 at
12:42
│Comments(1)
2015年03月18日
膳所幼稚園修了式
今日は市内の公立幼稚園の修了式です。
卒園式ではなく修了式、卒校式とは言わずに卒業式、
小学校の学業が終了したということで卒業式、
幼稚園も同様です、卒園式の方が耳馴れしていますが、
言葉はできるだけ正確に・・・・。
55名、ペンギン組とライオン組の2クラスの園児が
巣立ちました、祝辞で「修了おめでとうございます」という
フレーズがあると「ありがとう」と園児がお礼を言います。
今年感心したのは「おめでとうございます」の返事が
「ありがとうございます」でした、それもはっきりと全員が
揃っていました、練習したのかどうかは分かりませんが。
もう一つ、式の最後にお祝いの歌を保護者が歌いました。
園児と向き合い、伴奏が始まる、その時に、園児から
「がんばりやー」。
これには皆さん爆笑でした。
平成20年と21年生まれの子どもたち、この子たちが
成人を迎える平成40年はどんな年になっているだろう。
今から大人たちがしっかりした礎を築いておかないと、
そんな責任感を改めて感じました。
明日は小学校の卒業式です、空模様が心配ですが
母校の膳所小学校からは110名が卒業します。
私は母校ではなく富士見小学校で議長の祝辞を
代読してきます。
明日の午後からは統一選挙の立候補時に提出する書類の
予備検査があります、ほぼ揃いましたが一部まだの分もあり、
これから、もう一度見直し作業です。
昨日、琵琶湖を見ていたら沖の方で白波が立っていました。
よく見ると水鳥が足を水につけたまま低空で飛んでいます。
それもかなりの数の水鳥でした、いよいよ春です、
春一番を待って北へ帰る準備でしょう。
地図やコンパスもなしによく方向がわかると感心しますが、
本当に体一つでの移動です、命を落とす鳥もいるでしょう、
これが人間なら、着替えに食糧、薬や飲み物・・・・。
大げさな荷物で移動です、それを考えると身を削っての北帰行、
良寛ではありませんが、災難に遭う時は災難に遭ったらいい、
死ぬ時は死んだらいい、これが災難から逃れる方法、
妙に実感できます。
卒園式ではなく修了式、卒校式とは言わずに卒業式、
小学校の学業が終了したということで卒業式、
幼稚園も同様です、卒園式の方が耳馴れしていますが、
言葉はできるだけ正確に・・・・。
55名、ペンギン組とライオン組の2クラスの園児が
巣立ちました、祝辞で「修了おめでとうございます」という
フレーズがあると「ありがとう」と園児がお礼を言います。
今年感心したのは「おめでとうございます」の返事が
「ありがとうございます」でした、それもはっきりと全員が
揃っていました、練習したのかどうかは分かりませんが。
もう一つ、式の最後にお祝いの歌を保護者が歌いました。
園児と向き合い、伴奏が始まる、その時に、園児から
「がんばりやー」。
これには皆さん爆笑でした。
平成20年と21年生まれの子どもたち、この子たちが
成人を迎える平成40年はどんな年になっているだろう。
今から大人たちがしっかりした礎を築いておかないと、
そんな責任感を改めて感じました。
明日は小学校の卒業式です、空模様が心配ですが
母校の膳所小学校からは110名が卒業します。
私は母校ではなく富士見小学校で議長の祝辞を
代読してきます。
明日の午後からは統一選挙の立候補時に提出する書類の
予備検査があります、ほぼ揃いましたが一部まだの分もあり、
これから、もう一度見直し作業です。
昨日、琵琶湖を見ていたら沖の方で白波が立っていました。
よく見ると水鳥が足を水につけたまま低空で飛んでいます。
それもかなりの数の水鳥でした、いよいよ春です、
春一番を待って北へ帰る準備でしょう。
地図やコンパスもなしによく方向がわかると感心しますが、
本当に体一つでの移動です、命を落とす鳥もいるでしょう、
これが人間なら、着替えに食糧、薬や飲み物・・・・。
大げさな荷物で移動です、それを考えると身を削っての北帰行、
良寛ではありませんが、災難に遭う時は災難に遭ったらいい、
死ぬ時は死んだらいい、これが災難から逃れる方法、
妙に実感できます。
Posted by いとう茂 at
12:56
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2015年03月17日
東日本大震災追悼文
もう4年が経ちました。
そして阪神淡路大震災からは20年という時間が流れました。
二つの大きな震災を経験した私たちですが、幸いなことに
直接被害を受けることはありませんでした。
救援物資や義援金、中にはボランティアで現地に行かれた方も
おいででしょう、東北のでは、今でも復興が進んでいない
まちもあります。
発災当時、わがことのように心を痛め、悲痛な日々を送った
人も多かったと思います、時間はすべてを過去に飲み込んでいくのでしょうか。
同じ場所に立ち止ることが難しいのはよく分かります。
だからこそ、時々振り返って痛んだ人を思いやる、心を寄せる、
そんな必要があると思います。
この追悼文に関して誹謗や中傷がありますが、彼女が
肉親を亡くした事実は消えることはありません。
時が元に戻らない中で、彼女がどんな4年を送ってきたか、
その事を思うと、やはり心が疼きます。
東日本大震災追悼式の宮城県遺族代表、菅原彩加さん(石巻市出身)
私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん!
元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。
あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、
地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。
しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。
その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、
かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、
瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。
「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、
近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
そんな体験から今日で4年。
あっという間で、そしてとても長い4年間でした。
家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、
15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。
全てが、今もまだ夢の様です。
しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。
震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、
東北にはたくさんの人々の笑顔があります。
「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。
日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。
そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」
という気持ちにいつもなることが出来ます。
震災で失った物はもう戻ってくることはありません。
被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。
しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも
増やしていける物だと私は思います。
前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、
震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、
しっかり前を向いて生きていきたいと思います。
最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、
本当にどうもありがとうございました。
また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。
今年は終戦から70年目の年です。
自然災害は日ごろの備えで被害を最小限度にとどめるしか
方法がないかもしれませんが、戦争は人間の意思でとどめることができます。
「平和」このことの大切さを今一度考える時期にしたいと思います。
そして阪神淡路大震災からは20年という時間が流れました。
二つの大きな震災を経験した私たちですが、幸いなことに
直接被害を受けることはありませんでした。
救援物資や義援金、中にはボランティアで現地に行かれた方も
おいででしょう、東北のでは、今でも復興が進んでいない
まちもあります。
発災当時、わがことのように心を痛め、悲痛な日々を送った
人も多かったと思います、時間はすべてを過去に飲み込んでいくのでしょうか。
同じ場所に立ち止ることが難しいのはよく分かります。
だからこそ、時々振り返って痛んだ人を思いやる、心を寄せる、
そんな必要があると思います。
この追悼文に関して誹謗や中傷がありますが、彼女が
肉親を亡くした事実は消えることはありません。
時が元に戻らない中で、彼女がどんな4年を送ってきたか、
その事を思うと、やはり心が疼きます。
東日本大震災追悼式の宮城県遺族代表、菅原彩加さん(石巻市出身)
私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん!
元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。
あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、
地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。
しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。
その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、
かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、
瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。
「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、
近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。
そんな体験から今日で4年。
あっという間で、そしてとても長い4年間でした。
家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、
15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。
全てが、今もまだ夢の様です。
しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。
震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、
東北にはたくさんの人々の笑顔があります。
「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。
日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。
そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」
という気持ちにいつもなることが出来ます。
震災で失った物はもう戻ってくることはありません。
被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。
しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも
増やしていける物だと私は思います。
前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、
震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、
しっかり前を向いて生きていきたいと思います。
最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、
本当にどうもありがとうございました。
また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。
今年は終戦から70年目の年です。
自然災害は日ごろの備えで被害を最小限度にとどめるしか
方法がないかもしれませんが、戦争は人間の意思でとどめることができます。
「平和」このことの大切さを今一度考える時期にしたいと思います。
Posted by いとう茂 at
12:27
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