2025年03月31日

解散

昨日の膳所桜まつりのステージ演奏が、石鹿っ鼓の最後の演奏になりました。
平成4年からの活動の掉尾を飾る演奏だったと喜んでいます。
演奏前にはいつもと同様に「声を出せよ」「間違ってもいいから止まらないように」「走るなよ」と声をかけ、3曲の演奏が始まりました。
太鼓の演奏は基本的に、序破急、起承転結とそれぞれパートがあります。
1曲目はこの「急」「結」の部分になるとテンポが上がり過ぎましたが、いつものことです。
それでもまだ落ち着いた演奏で全員がバラバラになることはありませんでした。
実は、昨日はいつもと違う順番で演奏をしました、得意の曲から始めていましたが、最期に苦手な曲を持ってくることで、子どもたちに不要なプレッシャーがかかっていないか、最初に苦手な曲を演奏すれば残り2曲は自信をもって演奏できる。
そう考えました、曲の順番を変更することを子どもたちに告げると、最初は戸惑った顔でしたが、1曲目が終わると表情が緩んでいるように見えました。
その後は間違いはありましたが、自信をもって2曲の演奏を続けて行い、晴れ晴れした顔が並んでいました。
インタビューでは「これまでで一番いい演奏ができた」「楽しく演奏ができた」そんな声がありました。
終わってからサプライズが・・・・。
子どもたちが感謝とお礼を書いた色紙をくれました。
卒団して中学生になっている子どものもあり、嬉しいサプライズでこみ上げるものがありました。
来週からは中学生になる子ども達です、これで和太鼓も卒業し違う世界に飛び込んでいくことになります。
人前で演奏してきた自信がこの先、自信になって力強く生きてくれることを願います。
  
Posted by いとう茂 at 19:07Comments(0)

2025年03月30日

自然の力

大船渡の山林火災の報道があった矢先に岡山、続いて今治と3つの大規模な山林火災、宮崎でも山林火災がありました。
日本では自然発火による山林火災はほとんど発生しないと報道がありました。
登山客か山菜取りの人かも知れません、焚火やたばこのポイ捨てが大きな災害になる。
もし今回の山林火事の原因が人間によるものだとしたら、改めて人間という生き物は生物の中で唯一ゴミを出す生き物であり、作り出す事はできても最後の後始末ができない生き物だと思います。
焚火やたばこの後始末だけでなく、海に漂うプラスチックゴミの回収も出来ませんし、長崎の通称軍艦島は石炭の採掘場でした。
ここも長年放置され風化の道を辿っていますが、あろうことか世界遺産に指定されました。
富士山や屋久杉と肩を並べる世界遺産・・・。
さらには、核燃料の廃棄物の処理、海外では地下何百メートルの地中に貯蔵している国もありますが、散らかった部屋の物を押し入れに詰め込む、と言っては乱暴すぎる・・・かな。
アルミ缶やプラスチックのリサイクルと言っても、アルミが元のボーキサイトに戻ったり、プラスチックが石油に戻ることはありません。
しかし、それを人間は都合よく「地球にやさしい」などと言っている。
地球は話ができないから異常気象という形で意思表示しているとは考えられないか。
現代社会で生活している人間が子どもだとしたら、どんなに子煩悩の親でもわがままで自分勝手、周りの生き物のことよりも自分が優先でないと許せない。
そんな子どもをニコニコ笑ってヨシヨシと見ていられないと感じます。
そのうち地球が激怒する時が来るかもしれません。
小さな自然さえコントロールできない人間です、自然の力の前にはひれ伏すしかないと考えています。
  
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2025年03月29日

明日が最後

いよいよ明日の日曜日に子どもたちが和太鼓を演奏したら、石鹿っ鼓は解散です。
演奏も最後ですが子どもたちが着用するユニフォームも最後になります。
この前の練習で「ユニフォームは回収しないので、記念に持っていなさい」と言うと子どもたちは別に喜ぶでもなし「不用品で捨てるかも」そんな返事をする子どももいました。
この子たちにとって和太鼓は何だったのかと考えさせられました。
私より少し下ですが、今でも高校のセーラー服を残している人を知っています。
断捨離で捨てられない思い出の品は誰にでもあるように思うのですが違うかも知れない。
私は20歳の時に買ったマクレガーのコートが捨てられません、価格も給料よりも高かったのと今でも着られるので捨てられない面もありますが、友達と遊びに行くときによく着ていた記憶がありますし、コートを見ると様々な思い出のシーンが出てきます。
太鼓の子どもたちも4年間着慣れたユニフォームに思い出があるだろうと考えていたのは私だけで、子どもたちは執着や懐かしさはないようです。
思い出はときには生きる力にもなると考えています、苦しかった時を乗り越えた自信、親しい友人と酔っぱらって兄弟のように騒ぎ、いやなことを吹き飛ばす等はいい例です。
今の子どもたちの思い出はスマホに全部入っているのでしょうか、誰誰から来た古いメールやX、SNS、写メで残した友だちや風景、記憶に残すのではなく思い出は記録に残すもの、そう考えているのかも知れません。
誰も覗けない心の奥にあるから大切にしまっておけるように感じますが、どうやら違うようです。
最後に自分たちの演奏を残してというのもセンチな年寄りのたわごとかもしれません。
  
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2025年03月28日

米に思う

政府は備蓄米を放出することで米の小売価格を下げようとする政策が行われています。
5キロが4000円台と、銘柄を問わなければ昔なら10キロが買えた価格まで上昇しています。
投機目的の手段に米がなっています。
誰かがため込んでいるというニュースもありますが、特定はされていません。
その昔は米余りで、政府は奨励金を出して減反政策を勧めましたが、その当時は国民の米離れがクローズアップされて、田んぼを減らしても問題は無いという判断だったようです。
最近は海外でも日本の米は人気で輸出量も増加しています。
輸出が増えだしたのは今年や昨年のことではありません、その段階で稲作の奨励もされたのかも分かりませんが、休耕田は放置すると元の田んぼに戻るのに時間がかかると言いますし、他の農作物の栽培に充てられたり、多くの休耕田は地目変更がされて宅地になり、新興住宅を形成しています。
膳所でも20年ほど前までは、JR沿線や国道に面して田んぼが広がっていましたが、いつの間にかすべてなくなっています。
多くの農家は兼業農家で、農業振興は果物やブランド野菜作りに重点が置かれている気もします。
今回の米の高騰で、マスコミは「米が高い、売り場に米がない」といった報道はしますが、政府の農業振興の在り方についてはほとんど触れていない印象を受けます。
炊き立てのご飯に新鮮な卵をかける「卵かけごはん」がご馳走になる時代が来ているのでしょうか。
ホームセンターでは「田んぼキット」なる半畳ほどの深めのプランターと「花の土、畑の土」ならぬ「田んぼの土」がセットで売られ、花の種に混じってブランド米の種が販売される。
農業は専業農家と田舎暮らしを始めた人たちの趣味と化してしまうそんな時が来ることも考えられます。
米は主食と一段上に祀られるものの、その地位は小麦以下にしか見られない。
米がなくなるのは、昭和の人間が死に絶えてからにしていただきたい。
  
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2025年03月27日

「可愛い!」「可愛いか?」

毎朝起きて台所に行くとピョンピョン跳ねて吠える「げんき」、エサをくれのコールです。
エサをもらっている時だけはおとなしく、食べてしまうとこちらの顔を見上げます。
そんな時にいつも出てくる言葉が「何でお前はそんな間の抜けた顔やねん」横から嫁が「そんなことないなぁ、みんな可愛いって言ってくれはるもんな」とフォローしています。
犬自体は可愛いと思っていますが、この顔を可愛いと感じたことはありません。
他人さんが「まぁ、間が抜けた顔」なんていうはずがありません。
間が抜けた顔は犬には責任がありませんし、もしかすると何年か先の私の顔かも知れません。
犬は飼い主に似るとも言われます、げんきが先取りして未来の私の顔になったとも考えられます。
私も犬も残りの時間は分かりませんが、私にとっては最後の飼い犬になることは確実です。
間が抜けた顔もこの先の私の顔と考えれば許容できます。
それに、きりっと締まった凛々しい顔よりも、間が抜けた顔の方が癒されるようにも思います。
犬バカの目にはあばたは見えません、すべてえくぼになります。
スーパーに買い物に行くと欲しいものよりも先にドッグフードのコーナーで、その売り場が充実していることがスーパーを選ぶ基準になっています。
自分が欲しいものよりもドッグフードの出費が多いのも常です。
もし、これが逆で人間が犬のペットなら犬は人間にどんなものを買ってくれるのだろう、時々そんなことも考えます。
暑くなってきたから冷えたビールでも買ってやろうと思うのか、最近老けてきたから肉よりも野菜、それとも煮干しでもやっとこうと考えるのか。
しかし、とぼけた間抜け顔の犬が、そこまで考えられるか大きな疑問です。
  
Posted by いとう茂 at 12:01Comments(0)

2025年03月26日

いよいよともに最後

石鹿太鼓の子どもの部、石鹿っ鼓の練習と出演が最後を迎えます。
練習は今日の18時からで出演は30日の「膳所さくらまつり」のオープニングになります。
平成4年から開始して、33年間の活動でした。
最後ということで京都新聞が取材に来てくれる予定です。
行儀よくきびきび・・・とは無縁の会でした。
自由奔放に伸び伸びが当てはまるように感じています。
33年間で子どもたちも随分変化がありましたが、変化があったのは親の方かも知れません。
親が変わってきているので子どもがその影響を受けている、そう考える方が腑に落ちます。
「殺さへんかったら、何をしてもうても結構です」昔はこんな親が多くいました。
取りようによっては体罰容認です。
前の言葉はある母親で、練習の始まる前に血相を変えて走って来て「うちの子来てます?」子どもを見つけると「財布からお金盗ったやろ」、言葉と同時に蹴りが入り「今日は練習を休ませます、早よおいで」・・・みっちり説教だったと思います。
で、今の親は・・・。
子どもを預けるというよりも守りをしてもらっている感覚のように感じます。
そんな親に育てられた子どもでも、毎週見ていると情が移り可愛いものです。
6名いる子どものうち2名は家族で旅行に行きますので、4名と大人2名が補助で入ります。
本番では間違わないかの連続で、ハラハラしながらの補助になります。
本当は新しい指導者で会を継続してほしいのですが、そんな指導者もいませんし少子化で和太鼓に関心がある子どもも減り、オマケに塾や習い事で子どもも多忙です。
寂しい気持ちはありますが、考えようでは荷物が一つ減ったとも言えます。
荷物を降ろすよりもついつい背負ってしまうタチですのでちょうどいいのかも知れません。
30日のさくらまつりが晴れてくれることを願うばかりです。
  
Posted by いとう茂 at 12:42Comments(0)

2025年03月25日

サクラ・・・

もう死語になった感がありますが、昔、大学に合格した連絡に電報が使用されていました。
「サクラサク」見事合格した喜びが詰まった電文ですが、現在はスマホで「受かったわ」の一言かも知れません。
昨日は靖国神社の桜が開花したニュースが流れていました。
六輪の開花を確認しましたと、気象庁の職員が開花宣言をすると周囲から拍手が起きました。
雨や風の影響を受けない年の桜は、ほぼ2週間楽しめますが例年雨や風により10日前後の花見期間になっているように感じます。
1年でわずかな期間ですが、昼夜を問わず人が花見に出かけます。
短い期間でこれだけの人が外出することは花見しかありません。
「花見に行こう」そんな推奨もないのに自主的に外出します。
しかし、その桜も近年は咲く時期が早まり、「桜が咲くころ1年生」から「桜が散るころ1年生」に変化しています。
桜前線を追いかけて旅行に出る人も多くいて、経済効果も大きいようですが、クローンのソメイヨシノを植えようという動きはあまり知りません。
桜切るバカ梅切らぬバカ、そんなことわざもありますが、ソメイヨシノはヤマザクラよりも病原菌に弱く切り口から菌が入り幹を朽ちさせるという話を聞いたことがありますが、ソメイヨシノの歴史は江戸時代の末期に江戸の染井村から始まっていますので、せいぜい150年くらいでしょうか。
落語に「長屋の花見」という話がありますが、2・3世代前の人たちは家にある食材を持ち寄って、ささやかな宴を楽しんでいたようです。
時代は変わりましたが、豪華な食材を食べることよりも、隣近所の人とのコミュニケーションを大切にする、そんな花見は・・・ありえないのかな。
  
Posted by いとう茂 at 15:19Comments(0)

2025年03月24日

疲れたけど実り多い家族会でした

日曜日はえこーの家族会でした。
今回は移動例会で、相談者宅での開催になりました。
参加家族は3組と少なかったのですが、実りあるものになりました。
参加者が少ないということは、それだけ話をする時間が一人当たり多くなります。
いつも近況報告は10分と決めて、時間を計測していますが少ないときはフリータイムにしています。
近況報告では3組共に良い方に変化がありました、1組目は祖母がケガをして当事者しかいなかったので、救急車を呼んで病院まで付き添っていくことができました。
その後も家の固定電話にも出ることができ、誰誰から電話があったと親に報告もできています。
2組目は親の兄弟が遠方に住んでいて、こちらもケガをしたので両親が見舞いに行くのに1週間ほど家を空けることになりましたが、その間の食事を自分で作り後片付けもしています。
以前から、えこーでは両親に家を空けることを勧めていましたが、子どものことが心配で思い切れずにいたのが、今回は1週間という長期間家を空けることができ、両親がいなくても自分のことはできるという確信が生まれ、今後も自立に向けて家を空ける機会が増えそうです。
両親の兄弟には申し訳ありませんが、怪我の功名とも言えます。
最後は、この前にえこーの広報紙の発送を手伝ってくれた親子で、えこーに来てから昼夜逆転がなくなり地元のサロンなどにも参加しています。
この先えこーの行事があります、来月は琵琶湖沿いをウォーキング、5月は外来魚駆除の魚釣り大会、その間に出前えこーで相談者宅に行きますので参加を勧めることができます。
どこまでこの状態が続くかは不確定ですが、とりあえず動くことができ1段階段を上ったとスタッフ一同も喜んでいます。
当事者が自信をもって行動できることが今後も続くように方策を考えていきたいと考えています。
移動例会後はぐったり疲れ、夕食後はバタンキューで、日曜日の読書の時間が減りましたが、気持ちのいい疲労でした。
  
Posted by いとう茂 at 17:17Comments(0)

2025年03月22日

庶民感覚

この前に総理が1期の当選議員に土産代として、商品券10万円を渡したニュースがありました。
その際に10万円の商品券について「庶民感覚」では理解できないとのコメントがありました。
10万円の商品券が庶民感覚で理解できないのか、土産代として10万円の商品券が理解できないのか考えていました。
総理の擁護をするつもりはありません、この時期に10万円はおろか1万円の商品券を渡すことも問題で、渡したという行為そのものが庶民感覚とズレているという私なりの結論を出しました。
しかし、野党の追及はどうやら金額のようで、土産代として1万円の商品券なら大きな問題にならなかったような気もします。
一億総中流と言われたのは昭和の時代だった記憶がありますが、令和に入って庶民の格差が広がり、10万円という金額が大金の人とそうではない人がともに大勢いるように感じます。
私などには10万円は大金で、財布にそれだけのお札を入れることはありません。
大リーグのドジャース対カブスの開幕試合では、高い席では10万円をはるかに超えていますし、それもネットで申し込んで当選した人が見に行け、おそらく外れた人の方が多いのだと思います。
アメリカまで観戦に行こうと思えば旅費を入れると100万円以上かかるケースもあります。
大リーグの試合を生で見に行こうと考える人は庶民ではないのか、そんなことも考えました。
「普通」の定義が難しいように「庶民」の定義も難しい。
今では日本に「普通の庶民」はいなくなったのかも知れません。
「貧乏庶民」と「金持ち庶民」、知らない間に庶民の格差はそこまで広がっているのでしょう。
  
Posted by いとう茂 at 10:13Comments(0)

2025年03月21日

孫来る

春休みが始まって上の娘の子どもが一人でやってきました。
来月から高校で、この休みはほとんど制限がなく遊ぶことができます。
今日から2泊か3泊の予定で、羽根を伸ばすことになります。
お手伝いはあまり期待できませんが、食べるもののリクエストもなく、どこかに行きたいと言うでもなし、ゲームと犬をかまって過ごすことになります。
それでも、普段は静かな家がにぎやかで華やかな雰囲気になります。
うちに来るのは今年に入って3度目ですが、これがいつまで続くのか、じいじとばあばが元気でも孫にもいろいろな予定があります。
そのうちこちらに向かう足が遠のくことも予想できます。
それは孫の成長・・・と簡単に割り切れるか・・・。
ともあれ、先のことは考えずにうちにいる間は互いにいい時間を持ちたいと願っています。
  
Posted by いとう茂 at 12:50Comments(0)